ボルドーの歴史は、古代ローマによるガリア征服後、今日のフランス中央部から移住したガリア人の部族がガロンヌ側の左岸に一世紀初めごろに建設した商業都市「ブルディガラ」に始まります。
ガリア兵士像
そして、ボルドーで紀元前2世紀後半から飲まれていたのは、
(そこにいたのは、ガリア人とアキテーヌ人でしたから)
当然 イタリアワイン。
そしてこちらが イタリアワインを運ぶ為のアンフォラ。
横置きで19~20ℓものワインが地中海地方から運ばれガリア人を介してボルドーにもたらされていたのでした。
ボルドー地方でのブドウの栽培・ワイン生産の歴史も古く、
1世紀後半からアキテーヌ地方ではワインが大量に生産されており、
そのボルドーワイン用のアンフォラがこちら
アンフォラは輸送用の器ですから、1世紀頃から輸出用のワインがボルドーで作られていた事がわかります。 ボルドー地方がローマ人の影響を強くうけていたことの根拠をこの地方で第2次世界大戦直後まで使われていた「ガスパーニュ語」にも見る事が出来ます。
ガスパーニュ語はロマンス語諸語のひとつであるオック語の方言です。
ロマンス語はラテン語俗語に起源をもつ言語ですから、もちろん起源はイタリア・・
そして、アキテーヌ地方の直ぐ下のスペインと隣接するバスク地方はインド・ヨーロッパ語族にも属さない独特のバスク語を話すところからも、ガリア人が流入してきたのはアキテーヌ地方まで・・と裏付けられますよね。
「海洋都市 ボルドー」としての起源も意外と古く1世紀初め、5年から10年の間と言われ、ローマ人が彼らの「エンポリウム(貿易の中心地)」として築いたといわれています。
それが行政的・政治的権力を整えられ、大都市となるのは、69年〜79年にウエスバシアニウス皇帝の時・・ローマの属州(アイクイタニア属州)の首都になってから。
それがたとえ、(独立都市としてではなく)属州としてであっても、行政的・政治的安定なくして都市としての発展が見られない・・との例だと思いました。
ボルドー地方のワインは大プリニウスも大絶賛しているように古代から作られていましたが、本当の名声が与えられるまでしばし時間がかかります。
それは・・
ローマ帝国崩壊と中世前期に行われた民族の大移動は交易に利する事はなく、ヴァイキングが定期的に襲いかかる海上にあえて出て行くものはなかったからだとか・・
12世紀以降はアキテーヌ公女の婚姻により、イギリス統治時代が訪れ、英仏百年戦争を引き起こします。
ですがこのイギリス統治時代に、イギリスでボルドーワインが大量消費されるためイギリスへの輸出のための重要な輸出港となっていきます。
フランス王ルイ8世に降伏した事により、イギリスの船に対して閉じられた近隣港のラ・ロッシェルに代り、
ボルドーの港は繁栄の時代を迎えます。
ボルドーワインはイギリスのみならず多数の販路が突如開かれます。
ブドウ畑を拡大し、内陸部のワインを運んでくる必要がありました。
この時かつてない発展を見たのが、広大なワイン生産地域(ガロンヌ川とドルドーニュ河流域)でした。
ワインの生産と販売は、大規模な人口増加をもたらし、
歴史家ミシェル・コランによると、これによって。1230年から1350年の間に新たに300の城塞都市とよばれる街が建設されたそうです。
ボルドーが世界的な大都市であると言えるとしたら、それは世界の隅々からやってきた人々がこの地で増加し続けたそのコスモポリタリズムにありました。
地理上の様々な場所から来た商人たちはそれぞれ異なる宗教を信仰していましたが、
「商い」というより高次な利益の為に、それが争いの原因になる事はありませんでした。
この時代、同じフランスでもパリではカソリックとプロテスタントの対立によるプロテスタントの迫害が吹き荒れていましたが、ボルドーではその影響とは無縁でした。
むしろ、1685年のナントの王令が廃止されるとプロテスタントの多くはひとたびハンザ同盟やネーデルランド連邦共和国など友好関係を仕事上で結んでいた国々に逃げ、
その後、ボルドーにもどり商売網を展開させました。
このような、「利益」という現実的な目的の為に宗教的な問題に寛容であるボルドーの態度は、前回書いたフィレンツェやヴェネツィアのライコの精神と通じるものがありますね。
18世紀を迎えボルドーは黄金時代をむかえます。
町は富み、発展し、整備されます。
中世の古い都市は、徐々に新しい都市計画によって変えられ、その建築は今日でも訪問者たちを魅了しています。
なぜこのような突然の豊かさが可能であったかというと・・
ボルドーの人々が世界経済を動かすふたつの商品の生産と販売を管理する事が出来たからです。
ひとつはもちろん「ワイン」。
ふたつめは 「砂糖」です。
この「砂糖」にはボルドーの影の歴史と言えますが、ボルドー史を語る上では見過ごす事はできません。。。
「砂糖」の原料となるさとうきび栽培には膨大な労働力が必要とされるため、ヨーロッパ人は多数のアフリカ人を奴隷に陥れ、アメリカへと運搬するようになります。
18世紀の7万人近い移送を頂点とし、16世紀から19世紀にかけて1100万人から1300万人の黒人が強制移送されました。
黒人奴隷貿易あるいは「三角貿易」はヨーロッパでアフリカの王や商人の興味を引く商品を船に積む事に始まります。
次にアフリカの海岸で下船し、奴隷とこれらの商品を交換し。次にアンティルカ諸島
へ運搬して、プランテーションの地主に彼らを売り、船は植民地の物資を積んでヨーロッパに戻ってきます。
実際のところ、ボルドーは「直線貿易」と呼ばれる、アンティルカ諸島への直線的な貿易を好んでいましたが。。
かといってボルドーがより「道徳的」であったとはいえません。
「直線貿易」といえど黒人奴隷によるさとうきび栽培の上に成り立っていたのですから・・
さてそんな陰の歴史の残した絵画がこちら・・
「アンティルカ諸島のふたりの女たち」今回の展示画です。
手前のリンゴをもった女性は クレオール(西インド諸島やギニアの植民地で生まれた白人)というそうですが、ボルドーの美術館や博物館にはクレオールのコレクションがたくさんあります。
さて下の絵画「フェードとイポリット」1815年
1815年とありますから、新古典主義からロマン主義への過渡期の作品であり、解説によれば新古典主義の画ということですが、
フェードル(右手こちらを見据えている白い衣服の女性)は継子のイポリット(左端に立つ美少年!)に恋をするのですが
思いもよらず夫のテゼーが帰還したため、フェードルは乳母のエノーヌの助言に従いこの若者の方が彼女を陵辱したと偽ってイポリットに罪をなすりつけます。
(ひどいですよね。本当に恋してたのかしら・・)
それがこのシーン。
ゴールデンタイムの不倫ドラマのオープニングシーンでも違和感ないくらいの世俗的でドラマチックな一枚。
イポリットを睨みつけるテゼーの眼差しの怖い事・・
結局、テゼーは息子の死を求め、フェードルも自殺へと追い込まれます・・
テーマとしては神話に題材をとっているのと画法から新古典主義と分類されていますが実物を拝見して、その世俗性に圧倒され・・
個人的には理性的な新古典主義より、よりロマン主義に近い感情表現では・・と思った
一枚でした。
18世紀末にアロイス・ゼネフェルダーが考案した石版画技術は1810年代頃からフランスでも取り組みが始まりました。
ボルドーで最初に石版画法を根付かせたのはゴーロンです。
ゴーロンはフランスの植民地であったサン・ドマング生まれのクレオールでした。
ボルドーのネゴシアン(ワイン商)にひきとられます。
1818年に石版画印刷所をひらきその、印刷はワインボトルの美しいエチケット(ラベル)として残っています。
それがこちら・・
今回の展示品です。
これらはいずれもゴーロン印刷所で作成されたエチケット。ボトルにエチケットを貼る習慣は1820年代に始まり、それは消費者の間でワインの銘柄や生産者への関心の高まりや、ボトルを作るガラス産業の発展を背景とします。
おそらくはドイツに始まった、エチケットを貼る習慣はボルドーではゴーロンが導入しこれがフランス全土へ広がって行きます。
今展覧会の最大の目玉と言えば・・
図録の表紙にもなっているドラクロワの「ライオン狩り」ですが・・
ドラクロワといえばフランスのロマン主義を率いた画家。
こちらルーブル美術館所蔵の「勝利の女神」で有名ですよね・・
(こちらは展示されていません)
ドラクロワはボルドーと縁が深く、ドラクロワの父シャルル・ドラクロワは、革命期から帝政期にかけて活躍した政治家で、政府の要職を歴任、晩年は、ブーシュ・デュ・ローヌ県知事を経て、1803年から1805年にジロンド県知事としてボルドーに家族とともに赴任しています。
父の死後、家族はパリへ戻っていますが、兄のシャルル=アンリ・ドラクロワ男爵は1840年からボルドーで暮らしそこで没しています。
遺品の整理をまかされたドラクロワは、兄の家に残された自作のうち
「泉のライオン」と「モロッコの近衛兵」をボルドー美術館に寄贈しています。
そして現在、ボルドー美術館の代表的な所蔵品の一つになっているドラクロワ晩年の大作「ライオン狩り」は
1855年のパリ万博で展示するためフランス政府の注文によって1854〜1855年に制作されたものです。
それがこちら・・
(本展覧会の図録の表紙です)
こちらはいわゆる「オリエンタル絵画」といわれるものでナポレオンのエジプト遠征やギリシャ独立戦争といった政治状況とも呼応しつつ、
19世紀初頭に大流行を見せました。
ドラクロワ自身も1832年にフランス政府の外交使節団の随行画家として北アフリカを旅行した事で、帰国後これらを着想源とした絵画を沢山描きました。
本作品はその流れの一作品とみていいのでしょう。
1855年のパリ万博に関して付け加えるならば・・
このときに、ボルドーにおいてワインの格付けが始まりました。
そしてこちらがボルドー地方の主な産地と一級シャトーです。
最後に・・
一般にボルドーの美術面の弱さ・・が言われますが
その理由を考えてみたのですが・・
ボルドーには芸術家を擁護する圧倒的な財力をもつパトロンが存在しなかったこともひとつの要因ではと思っています。
例えばフィレンツェでいうメディチ家のような存在です。
ボルドーに流入した人々はガリア人だけでなくイベリア半島の国々やブリテン諸島、ハンザ同盟の国々、ネーデンルランド共和国(オランダ)からやってきた人たちでこれらの人々は海洋に乗り出しネゴシアン(ワイン商)や船主となっていきます。
一方、ボルドー人は船乗りというより農民、正確に言えばブドウ栽培者であり、彼らは富を築く為にネゴシアンになるよりも地主になることを切望し、商品取引の管理を引き受け、海洋史に名を残した人もほとんどいません。
有名なネゴシアンのカルヴェやジャン・ジャック・ボスにしても財力ももちろんメディ
チ家とは比べ物にならなかったでしょうが、芸術を擁護するというよりはアール・デコの邸宅を注文したりと享受する側に過ぎなかったようです。
それ故、
ボルドー地方の才能のほとんどがパリに流失してしまいます。
1768年に設立された「絵画・彫刻・建築アカデミー」も9人の画家はボルドーに残り、11人がパリに去ってしまいました。
また美術品の購入に於いても、1851年に設立された「ボルドー芸術の友協会」の歴史は
収蔵品を購入し損ねた歴史・・ともいわれ、
1854年のローザ・ボヌールの「馬市場」
1862年のマネの作品で現在はニューヨークのメトロポリタン美術館にある傑作「剣をもった少年」
1865年のクールベ「画家のアトリエ」
1868年のアングルの作品で、現在ではオルセー美術館を飾る「泉」
さらには印象派の作品群など・・
の購入のチャンスがありながら逃しています。
絵画面では弱かったボルドーですが応用芸術では様式的にも造形的にも素早い展開を見せ、現在でもボルドーではたくさんの美しいアール・デコ様式の建築物を見る事が出来ます。
スタンダールが「パルムの僧院」の中で
「フランスで最も美しい町」と唄った月の港ボルドー
いつか訪れてみたい・・と思ったのでした・・
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