そんな魔力を持つヴェネチアの政治の中心だったドゥカーレ宮殿について・・
ドゥカーレ宮殿には2日間にわたって、ツアーに参加しました。
(結局2日間とも親子三人で貸し切りでしたので、色々質問も出来てとてもラッキーでした。)
今回はドゥカーレ宮殿の概略と美術面のレポです。
ドゥカーレ宮殿はサン・マルコ寺院とともにヴェネツィアという都市のシンボルであり、サン・マルコ寺院が「総督(ドージェ)の礼拝堂」である一方で、
元首官邸・議事堂・内閣府・裁判所そして監獄までも兼ね備え、ヴェネツィアの統治機構のすべてを含む巨大な建造物なのです。
(監獄については2日目に別のツアーに参加したので、次回に詳しくレポします。)
810年に元首の居城として建造され、当初は堅固な城塞の様であったといいます。
1172年、それまでの要塞型の形態からポルティコ(列柱廊)とロッジア(開廊)を備えた開放的な邸館建築に生まれ変わりました。
14世紀に岸辺に向かって新らしい翼が増築され、15世紀半ばにほぼ現在の形になったと言います。
南側を海に、西側はサンマルコ広場に面しており、その明るく洗練された外観は船で海からヴェネツィアに到着するときも、もっとも目立つのがこの建物なのです・・
これは海側からみたドゥカーレ宮殿
こちら側に入り口があります。
入り口を入ると広い中庭(「元老議員達の中庭」)がありそれを建物が取り囲んでいます。
こちらはその中庭に面している「巨人の階段」
1483年〜85年にアントニオ・リッツオが築いたそうです。
ドゥカーレ宮殿はたびたび火災に会い、とくに1574年と1577年の大火災によってベッリーニ、ジョルジオ−ネ、ティツィアーノといったいわゆるヴェネツィアの国力の絶頂期(正確に言いますと、ジェノバと休戦条約を結んだ1381年からトルコとの戦闘が再開される1498年まで)の画家達の作品がドゥカーレ宮殿から永遠に失われてしまいます。
それ故にドゥカーレ宮殿ではヴェネツィアの絶頂期(美術史的にはルネサンス)の作品を見ることはできません。
その代わり、このような不幸にくじけることなく、ヴェロネーゼやティントレットといった巨匠を招き大評議室を中心として装飾作業が再開されます。
今回はこのヴェロネーゼとティントレットの作品を中心にティツィアーノとティエポロにも触れていきます・・
こちらは「四扉の間」
元老院の間やシニョリアの間に行く為に通過する部屋や控え室として使われていました。
天井画の真ん中にある長方形の絵はヤコボ・ティントレットによるもの。
1578年つまり火災以降に制作した、ヴェネツィアの支配下にある都市や地方の象徴的な絵や神話を題材としたフレスコ画です。
左手の壁の絵画は・・
なんと・・ここドゥカーレ宮殿にある唯一のティツィアーノの
「信仰の前にいる総督アントニオ・グリマーニ」
ティツィアーノの作品は先日の投稿でも書きましたが、ヴェネツィアには殆ど残っておらず此の地で見られるのは非常に希少です。
そして、「四扉の間」のもう一つ見逃せない作品は
天井画のこちらからみて一番正面にある
「ヴェネツィアに海の恵みを与えるネプチューン」こちらはヴェネツィア最後の巨匠といわれた18世紀の画家ティエポロによるものです。
こちらも非常に有名な絵画で、ヴェネツィアを紹介する本には度々紹介されています。
右の女性はヴェネツィアを具現化しており(左手にいるライオンが聖マルコの寓意)、海の神であるネプチューンから金銀財宝を受け取る姿は、ヴェネツィアが海洋貿易によって恩恵を得ていることの寓意画なのです。
次に・・
「閣議の間の控え室」
大使や代表団が内閣に謁見されるのを待つ為に使われた、迎賓控え室です。
こちらは天井画
中心の六角形の絵画はヴェロネーゼによるもの。
此の少しグリーンがかったブルーはまさにヴェロネーゼブルー。
本当に美しくて心奪われます・・
かのナポレオンはヴェネツィアを攻略したときヴェロネーゼの作品がたいそう気に入りたくさん略奪していったそうですが、こちらは天井画だったため、断念したそう・・
よかったよかった・・
こうやって、後世の旅人である私たちがその美を堪能する恩恵に浴せるのですから・・
ヤコボ・ヴェロネーゼについて補足しますと・・
ヴェロネーゼ(1528〜88)は希有のカラリストといわれ、ヴェローナで生まれそこで修行します。
1555年までにヴェネチアに移住します。
今回は通らなかったのですがあの恐れられていた10人委員会の間を装飾したことでも有名です。
ティツィアーノも大変ヴェロネーゼを気に入っていたと言います。
ヴェネツィア絵画史の中での位置づけはジョバンニ・ベッリーニが15世紀に起こし、
ティツィアーノに引き継がれることになる色彩主義というヴェネツィア絵画の正統派の流れに比べ、ヴェロネーゼは独立した、個人的なやり方を提案します。
つまり、国家イデオロギーと結びついた古典的パラダイムが、マニエリズム的な様式と合体するのです。
ヴェロネーゼの画風は2世紀後の18世紀にティエポロによってリバイバルしヴェネツィア最後の美を生み出す原動力となっていきます。
さて・・
写真に撮り忘れましたが、壁面はティントレットの絵画で埋め尽くされています。
(すっかりヴェロネーゼの作品に見とれておりました・・)
そしてこちらは
「閣議の間」
国家の行政と代表行為を行っていた大審議委員会と共和国執政府の会議に使われていました。
此の部屋の天井も壁もヴェロネーゼ・・ヴェロネーゼ
わ〜〜〜!!
こちらの透明なブルーも美しい・・
こちらはヴェロネーゼの「レパントの海戦の勝利を感謝するセバスティアーノ・ヴェニエル」
レパントの海戦は1571年10月7日にスペイン、ローマ教皇、ヴェネチアの連合軍がオスマン帝国を破った戦いですが、ドゥカーレ宮殿にはこれのみならず、コンスタンティノープルの陥落など、ヴェネチアの歴史的勝利の瞬間を表した絵画で埋め尽くされています。
そしてこちらがドゥカーレ宮殿の一番の見所である
「大評議会室」
此の部屋は1474年からベッリーニ兄弟以下、ティツィアーノ、ティントレット、ヴェロネーゼらによる油彩壁画が制作されていましたが、完成直後の1577年の火災ですべてが消失してしまったそうです・・
もったいなさすぎます・・
その後、装飾作業が行われて現在の姿になりました。
最大の見所にして最大の部屋・・2000人も収容できるキャパシティーがあります。
此の部屋のみどころはなんといっても
ティントレットの「天国」です。
こちらは世界一大きな油絵だそうです。
う〜ん、迫力がありますね〜
パズルのように手分けしてティントレットやその息子や弟子達によって描かれた
絵画を組み合わせてこんなに大きな作品に仕上げたと言います。
近くで見ますと・・
人物が書かれている陰の部分とそれ以外の光の部分のコントラストが非常にわかりやすいですね・・
・・とてもドラマチックな印象です。
ティントレットについても補足しますと・
ヴェネツィア生まれで(1518〜94)バロックの先駆者と言われますが・・
劇的な構図と鮮烈な色彩、強烈な明暗や生き生きとした筆触がバロックの先駆者といわれる所以だとか・・
この画家もティツィアーノと同じく晩年まで筆力が衰えず、おびただしい数の作品を制作し、ヴェネツィアでもっとも頻繁に目にする画家なのです。
この「天国」もそうですが、息子や娘も画家となり大きな工房を構えたため、工房作も多いとか・・
この「天国」実はヴェロネーゼがフランチェスコ・バッサーノと共同で描くはずだったのですが、ヴェロネーゼが没してしまい、かわりにティントレットが息子や弟子達と描いたそうです。
で・・こちらは天井画。
ヴェロネーゼの「ヴェネツィアの勝利」
またまた、ヴェネツィアが女性として描かれ(天使に戴冠されている)美徳に囲まれたヴェネツィアの礼賛が象徴的に描かれています。
やはりブルーが美しいです・・
ヴェネツィアの美術について総括するならば・・
ティツィアーノをはじめ、ジョバンニ・ベッリーニ、ティントレット、ヴェロネーゼら巨匠達の活躍によって、ヴェネツィアはローマに匹敵する美術の中心地となり、同時代のパオロ・ピーノやロドヴィゴ・ドルチェの批評によって「ローマの線描に対するヴェネツィアの色彩」という図式ができます。
素描より色彩を重視するヴェネツィア絵画は輪郭線と色彩が溶解するようなティツィアーノの表現主義的な晩年様式で頂点に達したと言われています。
20世紀のアメリカの批評家クレメント・グリーンバーグはこうしたヴェネツィア派の絵画性はそのごの西洋美術に脈々と受け継がれ、20世紀の抽象主義に至るという系譜を示唆しそれを「ヴェネツィアン・ライン」と名付けています。
つまり「ヴェネツィアの色彩」は現在に繋がる絵画の可能性を内包していたということなのでしょう・・
個人的には・・ナポレオンではないのですが、ヴェロネーゼが大好きです。
とくにグリーンがかったヴェロネーゼブルーが・・
次の日の夜、オペラを見に訪れたファニーチェ劇場の天井・・
ここにもヴェロネーゼブルーが!!
オペラの舞台も鮮やかな色彩に溢れていて且つ耽美的な演出・・
すっかり、ヴェネツィアンマジックにかかってしまうのでした・・
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