モネ展(福岡市美術館)へやっと行ってきました。

近くていつでも行ける・・と思っていたら、終了間近・・。
「午後15:30頃が空いている・・昨日は混んでいたが今日は空いていた・・」
などの情報が錯綜するなか・・
「美術館は朝が命」のポリシーを貫くべく開館30分前からチケット売り場に並びました。
チケットは一番に購入出来ましたが、それでも混雑していたモネ展でした。
今回は「印象・日の出」そして「睡蓮」が評価されていくプロセスと2年前に訪れたジヴェルニーのモネの庭とパリのオーランジェリー美術館ついて書きたいと思います。
今回の展覧会の後半の見所は「印象・日の出」であったのですが、
今でこそ、西洋近代絵画のアイコンともいうべき此の作品、発表当時は人々の失笑を買ったのは有名な史実と言います・・

「印象・日の出」モネ展 公式図録より
最初に此の絵画をモネから購入したのはエルンスト・オシュデ。
(彼の妻 アリス・オシュデがモネの2度目の妻だと言いますから因果なものです・・)
エルンスト・オシュデが破産してルーマニアの貴族出身で医者のジョルジュ・ド・ベリオが『印象・日の出」を競売で手に入れました。
ド・ベリオがなくなると一人娘のヴィクトリーヌと彼女と結婚していたドノ・ド・モンシーが他の印象派の絵画と一緒に「日の出」を譲り受けました。
このころには「サン・ラザール駅」と「テュエリー公園」は1900年に開催された「フランス美術の100年展」に出品され印象派の絵画が公的に認められたのですが、
「日の出」は必要とされませんでした。
モンシー夫妻は、モネの死後ド・ベリオ医師が決して手放さないと誓った「日の出」をなんとか世に出そうと画策し、
ようやく1937年にポール・ローゼンベルグ画廊に展示され、1937年にはワルシャワとプラハで開催されたフランス美術の傑作展に出品されます。
ようやく「印象・日の出」が日の目を見ましたね。
(印象派の至宝になるのはまだ先です)
さらに・・
モンシー夫妻は第2次世界大戦の勃発を受けて、
マルモッタン・美術館に「印象・日の出」を含む11点の印象派の絵画が含まれている作品群を守るべく急いで収めました。
さらにこれらのコレクションは戦火を逃れシャンボール城に、
同じく戦火を逃れたルーブル美術館のコレクションとともに移され保管され、無事に今日の私達が目にする事が出来るのです。
(北京の故宮美術館の美術品が戦火を逃れるべく、台湾の故宮美術館に移動されたように、美術品を守る美術愛好家の尽力あってこそ私達はマルモッタン美術館のコレクションを見る事が出来るのですね・・)
第2次世界大戦後、マルモッタン美術館のド・ベリオ=ドノ・ド・モンシー展示室の落成式が行われますが、開会の辞も「ヨーロッパ橋・サン・ラザール駅」を賞賛していますが「印象・日の出」には触れていません。
こちらが「ヨーロッパ橋・サンラザール駅」

この展覧会の前期の展示画でした。
「印象・日の出」が至宝となるのは
『印象派神話の祖』といわれるアメリカ人ジョン・リウオルドの「印象派の歴史」(日本語訳が角川学芸出版から出ています)
を待たねばなりません。
その中で「至宝」としての「印象・日の出」のフランス国外持ち出しを禁じたのです。
これが「印象」日の出」が近代西洋絵画の「至宝」となるプロセスです。
「風景画」や「肖像画」は絵画ヒエラルキー的には下位に位置するため、
あのフェルメールの作品も「風俗画」とみなされ忘れ去られていた期間が長く、一人の美術史研究家に見いだされた事で「巨匠」となっていくのですが、、
フェルメールの絵画然り・・
モネの絵画然り・・
どうも美術館へ行く時は評価の定まったものを見て、何となく納得して帰ってきたりするものです。
ですが、今まで生きてきた中で(大袈裟な言い方ですが・・)
2回ほど、展示室に入るなり絵画全体から大気が動いているような強いエネルギーを・・
心の底に訴えてくるような物を感じ涙が止まらなかった経験が2度あります。
それは、3年前に訪れたロンドンのテート・ブリテンのターナーの部屋と2年前に訪れた、パリのオーランジェリー美術館の「睡蓮」の部屋です。
今回の「モネ展」にはオーランジェリー美術館に飾る「睡蓮」の試作画がたくさん展示されていましたね。
そして上野の国立西洋美術館の常設展にも実はモネの「睡蓮」は沢山展示してあります。
ですが、いずれを見てもオーランジェリー美術館の「睡蓮」の部屋を訪れた時のような
柳が風に揺れ、睡蓮が水の上をたゆたっているような・・
果てしない感じ・・深く心に訴えてくるような感じありませんでした。
オーランジェリー美術館の何が他の美術館や展示と違ったのでしょうか・・
その時の私の心理状態だったのでしょうか・・
私はオーランジェリー美術館の「睡蓮」の展示室の特殊な形状と展示の仕方に理由があると思っています。
オーランジェリー美術館へ展示する「睡蓮」を作成する頃白内障を患い、妻も長男も失ったモネは制作意欲を無くしてしまっていました。
また、ロダン美術館の敷地内に自分の絵を飾ってほしいというモネの願いも却下されたこともモチベーションを下げていた事の一因でした。
そんなモネを常に励まし続けたのは元首相のジョルジュ・クレマンソと義理の娘のブランシェであったと 原田マハ著「シヴェルニーの食卓」にも描かれています。
モネがこだわったのは展示室の形状です。
第一展示室と第二展示室どちらも楕円形です。
第一展示室の作品は・・


これらの横長い作品が楕円形の展示室の壁面をぐるっと囲んで展示されているのです。
第二展示室
こちらには「睡蓮」と妻アリスと長男を亡くした失意のモネがいつまでもいつまでも眺めていたという「柳」が描かれています。
このオーランジェリー美術館を訪れる前にジヴェルニーのモネの家と庭を訪れました。
4月になってモネの家と庭は開園(冬の間は閉館しています)したばかりでしたが、
その年のパリは6年ぶりの大寒波で雪がちらつき氷点下の寒さでした。
モネの庭にも池にも花一輪咲いていよう筈もありません・・

モネの庭と池と柳の木・・
左手にいる青いコートの後ろ姿は私です。
とにかく寒くて震えていてそそくさとカフェに入って暖かい飲み物と熱々のタルトタタンが美味しかった事を覚えています。
ジヴェルニーを後にし、そのままオーランジェリー美術館へ行きました。
(本当のことを言うと、あまり期待していなかったのです。
といいますのは、モネの睡蓮は有名すぎてどこでもコピーを目にして通俗的にさえ感じてしまっていましたので・・)
ですが・・
第一展示室に入ったとたん、空気が揺れているようなすべてが動いているような
風を感じました・・
水面は睡蓮のとともにたゆたい・・
柳から風が吹いてくるのです・・
自分は失意のままここへ来たつもりでしたが、実はそれはたいした事ではなく
・・そして実は持っていたのに気づいていなかった物に、ようやく気づいたのです。
名画は深く美しい気づきを与えてくれるものなのです・・
オーランジェリー美術館の「睡蓮」はすべてモネの死後展示された物ですがこちらも最初は不評でした。
当時の批評家達はこの作品群を「マイナーな装飾美術館」としてしまったのです。
1950年代にアメリカの抽象画家たちの関心を集め、決定的だったのはシュルレアリズムの画家アンドレ・マッソンのこの記述だったといいます。
オーランジェリー美術館の公式図録より少し長くなりますがその部分を全部引用します。
「クロード・モネという画家がヴェロネーゼやティエポロの領分であった明るく極彩色の広い画面を次第に好むようになって行くのをぼんやりと夢見る事が出来るかもしれない。だが、ここで夢から醒めよう。
そして彼の至高の作品の「睡蓮」について深く考えてみようではないか。
その記念碑的な大きさにも関らず、これらの絵はヴェネツィア派やフランドル派の巨大な装飾壁画とは何も似たところがない。
作者の精神は、あくまで「イーゼルの上の」絵を描いた偉大な画家の精神であると私には思われる。ただ、彼は、その上に、自分のヴィジョンにかなり広い〈かなり重要な〉視界を与え、世界を包んでしまおうと決意したに過ぎない。(宇宙と一緒になるには、水の鏡があれば十分である。)
宇宙のヴィジョンとむしろ言いたいところだ。もし此の言葉が、近頃、誰についてであろうと、何についてであろうと、やららに使われて、意味がずれてしまっていなかったなら。
比類の無い孤独な形象を想像したミケランジェロは、バチカンの礼拝堂が彼に想像力の中を天掛けながら、自己の全能を示すことを可能にしてくれる日を待った。それ故、私は、すごぶる真面目に、チュイルリーにあるオランジェリは印象主義のシスティナ礼拝堂である、と好んで言うのである。
パリの中心の人気のない場所に、あたかも近付き難いものとして聖別するかのように、オランジェリはひっそりと隠し持つ。
この偉大な傑作、フランスの天才の極みのひとつを。
アンドレ・マッソン 1952」
「オランジェリは印象主義のシスティナ礼拝堂だ」
(すごい喩えですね〜)
はつとに有名になり1952年にチューリッヒで大型の「睡蓮」の展覧会が開かれました。
また、パリではカティア・グラノフ画廊が展覧会を開きモネの「睡蓮」の再評価に重要な役割を果たしました。
モネはクレマンソとの往復書簡の中でも「楕円形の展示室」でなければならないと何度も強調しています。
モネは自分の作品の事をよく理解していたのでその普遍性や果てしない感じを観覧者に与えるには「楕円形」の展示室でなければなかったことを最後まで譲らなかったのでしょう。
さて、それはさておき・・
もし、誰かが私に・・
オランジェリ美術館のモネの展示室をもう一度訪れますか
と尋ねたら・・
答えは「No」です。
それは「一度見たから十分」なのではなく
(たとえ短い時間であっても)永遠とも言える至高の時間を味わったのでもう十分だ・・と思ったからです。
最後にマルセル・プルーストの「スワン家の方に」の中一節
モネの「睡蓮」へのオマージュを引用します・・
・・・(前略)ダンテの好奇心を煽り立てたあの哀われな人々、無窮の時の流れの中で永劫に繰り返す奇妙な苦悩に苛まれ、もしもダンテが足早に遠ざかるヴェルギリウスから(両親にせき立てられた僕みたいに)早く追いつくように促されなかったら、そのいきさつや、その訳を、もっと長々と語ってくれたに違いない、あの悠久の刑に処せられた不幸な人々の一人にも似た、これが睡蓮(ネニュファー)だった・・・・
(参考文献)
「マルモッタン・モネ美術館所蔵 モネ展 」公式図録
「ジヴェルニーの食卓」原田マハ 集英社
「オランジェリ美術館 クロード・モネの睡蓮」パリ・国立美術館連合刊
「オランジェリー美術館 見学ガイド日本語版」公式
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