4月の事ですが上野の国立西洋美術館でカラヴァッジョ展を見てきました。
カラヴァッジョの本名はミケランジェロ・メリージ。
彼の出身がミラノの近くのカラヴァッジオ村の出身であった為、またかの有名なミケランジェロ・ブオナローティと区別するため、「カラヴァッジョ」と呼ばれます。
日本での知名度はまだまだですが・・イタリアの美術史では「バロック芸術の先駆者」とよばれていています。(日本で売っているイタリアの旅行ガイドブックにもそう書いてあります)
しかしそれは20世紀にはいって美術評論家が美術史を総括したときの評価です。
今回は主にカラヴァッジョを通して見えて来たローマのルネサンスそしてマニエリスム、バッロク芸術についてと展覧会の出品作品について少し、最後に20世紀の美術評論家の評価について書きたいと思います。
カラヴァッジョが生まれたのは1571年ミラノの近くのカラヴァッジオ村。
16世紀後半の美術の中心であるフィレンツェ・ローマ・ヴェネツィアではマニエリスムという、形式を重視した非現実的な様式(マニエラ)が流行していました。
あのヴァザーリがレオナルド・ダヴィンチ、ラファエロ、ミケランジェロら盛期ルネサンスの巨匠たちが完成させた古典的様式を普遍的美の前提として「美しい様式(ベルラ・マニエラ」といい、それを真似する様式としてこのような呼び名がつきました。
時期的には盛期ルネサンスとバロックの間と考えられます。
代表的な画家にはパルメジャニーノ、ティントレット、ブロンズィー丿、エル・グレコなどがいます。
マンネリズムの語源ともいわれ、否定的にとらえられますが、
美術評論家 若桑みどり氏は「マニエリスムの芸術論」でマニエリスムとは ルネサンスにより失われたキリスト教的世界像・・_つまり古き中世が解体した
「危機の時代の文化」として不安と葛藤と矛盾の中で16世紀の人々が創造した「危機の芸術様式」としてその復権を唱えています。
カラヴァッジオが最初に修行に出たミラノではマニエリスムの影響はなく写実主義の伝統が息づいていました。
これが少なからずカラヴァッジョの後々の自然主義的な作風に影響を与えています。
それからなんのつてもなくローマへ。
様々な工房を渡り歩いてようやく当時のローマ画壇で売れっ子の画家カヴァリエール・ダルピーノの工房に入ります。
そこで花や静物画を描いていましたが、1年足らずで辞めています。
(ですがダルビーノはカラヴァッジョの才能を認めていたようでたくさん作品を持っていましたが、のちにボルゲーゼ美術館の基礎を作ったシピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿によって火縄銃の不当所持の嫌疑で逮捕されて、初期のカラヴァッジオ作品2点を含むそのコレクションを接収されてしまいます。目的の為には手段を選ばずの典型?)
やがて、カラヴァッジョは人生最大のパトロンフランチェスコ・デル・モンテ枢機卿に出会い、彼の邸宅 芸術家の集うマダマ宮殿へ移り住み傑作を生み出していきます。
彼がローマで公の場にデビューしたのは1599年にサン・ルイージ・フランチャージ聖堂コンタレッリ礼拝堂の両脇壁に聖マタイ伝のエピソード「聖マタイの召命」と「聖マタイの殉教」を描いた事によります。
それがこちら
「聖マタイの召命」
「聖マタイの殉教」
公開された両作品は大評判となり、一目見ようと人々が教会に殺到しそののちカラヴァッジョには作品依頼が殺到、またカラヴァジョの作品を持っている事は一種のステイタスにさえなりました。
さてカラヴァッジョがデヴューした1599年とは特別に意味を持ちます。
1600年はローマにとって25年に一度の聖年(ジュビレオ)であり、その年にローマに巡礼して7大教会でミサに参加すれば、全贖罪を得られるとうキャンペーンのもとおびただしい巡礼者をローマに集める事に成功したのです。
そのためイタリア戦争や宗教改革で一時的に停滞していたローマは聖年にむけて(プロテスタントへのアンチテーゼとしての)カトリック芸術を充実させる事で復興を試みそれは見事に成功したのです。
つまり、宗教が美術を求めた時代であり、
時代がそしてローマがカラバッジョの才能を待っていたと言えるでしょう。
フィレンツェは紛うことなきルネサンスの街といえるでしょうが、ローマはシスティ
−ナ礼拝堂はルネサンスの殿堂といっても過言ではないでしょうが、ローマの街はバロック芸術に溢れている・・と実際訪れて感じました。
ルネサンスはフィレンツェからはじまり、ローマ、そしてヴェネツィアへと広がりを見せていきますが、フィレンツェからローマへとルネサンス芸術の中心地が移っていったのも実は聖年によるものでした。
聖年には教皇や枢機卿や貴族達が多くの芸術家を招いて大規模な建設事業や装飾事業を行いました。
ルネサンス芸術の中心地がフィレンツェからローマに移ったのは1450年の教皇ニコラウス5世から1550年の教皇ユリウス3世の聖年にいたる数回の聖年によるものです。
その期間にトスカーナやウンブリアの優れた芸術家がローマに招かれ活躍したからにほかなりません。
しかしフィレンツェはいいものばかりをもたらした訳ではありません。
メディチ家出身の教皇レオ10世(ロレンツォの息子です)は散財を重ね、財政難に陥り、免罪符を発行したことはあまりにも有名ですよね・・
そこから宗教改革が起こります。
プロテスタントは教会を飾る宗教美術も偶像崇拝だとして、随分破壊させたそうです。
教皇レオ10世の残した負債は60万フィオリーノ(約720億円)!!
次のハドリアヌス6世の時代は緊縮財政でローマは一気に華やかさを失ったと言います。
そしてつぎもまたメディチ家出身の教皇クレメンス7世。
(彼は、パッツィ家の陰謀で殺されたイル・マニフィーコの弟のジュリアーノの息子です。)
クレメンス7世は最初は従兄弟のレオ10世の方針を踏襲し、神聖ローマ皇帝カール5世側についていましたが、フランス王フランソワ1世に勝利し、勢いに乗るカール5世のに脅威を感じて、フランス側と同盟を結んでしまいます・・
(これがいけなかった。)
これがカール5世の怒りを買って・・
カール5世はまずローマ貴族のコロンナ家をそそのかして反乱を起こさせ、教皇のいるヴァチカン宮殿をさんざん荒らさせ、クレメンス7世はサンタンジェロ城に避難してしまいます。
ここからがひどかった・・
翌1527年5月にドイツ傭兵団とスペイン軍からなる合計2万の強固な軍隊をローにさしむけ、傭兵の多くはカトリックを憎むプロテスタントであったため、長い戦いでお金も食料も底をついていた彼らは暴徒とかして略奪の限りを尽くして暴れ回りました。
これが歴史で言うところの
「ローマの略奪」です。
この略奪と虐殺でローマ市民の死者は8千人以上にのぼり、市内のあらゆる建物は破壊され、財宝は奪い取られます。
(事実上、ローマの略奪をもってローマのルネサンスは終焉します)
町にあふれていたルネサンスの香りはきっと壊され略奪されてしまったことでしょう。
このような略奪はカール5世の命じた事でも望んだ事でもなくのちのち大変後悔したと言います。
その事態を招いた張本人である教皇クレメンス7世は此の事態に何も出来ず半年以上もサンタンジェロ城に閉じこもっていたとか。
カール5世との交渉で莫大な賠償金(40万フィオリーノ・・約480億円)を払わされます。
メディチ家はローマにルネサンスをもたらし、一方ではそれを壊してしまったとは言い過ぎでしょうか。
それにしても、思うのはクレメンス7世の政治的センスのなさ・・
同時期のヴェネツィアがフランスやオスマントルコ、そして神聖ローマ皇帝カール5世に対して見事な外交手腕を発揮してうまくやっていたのとは何たる違いでしょう。
この時期のヴェネツィアの外交手段はやはり芸術家。
ベッリーニやティツィアーノなどの当代きっての画家をオスマントルコや神聖ローマ皇帝カール5世のもとへ派遣して彼らの肖像画を書かせてご機嫌を取っています。
カール5世のところにはティツィアーノを派遣し描かせたのがこちら・・
カール5世というとこの肖像画が出てくるくらいに彼にとって代表的な肖像画になりました。
このようにティツィアーノは外交の駒としてあちこちに派遣されていたので、彼の作品は母国ヴェネツィアにはあまり残っていません。
話を戻しますと、ローマという街はルネサンスが花咲きながらも、宗教改革やローマの略奪によりその華やかさを失い、新しい芸術の担い手を必要としていた事・・
宗教改革へのアンチテーゼとしてのカトリック改革が1600年の聖年において新たな才能を必要としていた事・・
また、美術的には高踏的・衒学的なマニエリスムへのアンチテーゼとしての新しい様式を必要としていたこと(新しいスタイルとは自然主義的なスタイル・・後に言うところのバロック芸術)
カラバッジョはまさに時代に必要な存在として活躍しました。
1600年の聖年はカラバッジョの聖マタイ連作とカラヴァジョもその才能を認めていた
アンニーバレ・カラッチがファルネーゼ宮殿のガレリアに描いた天井画、その二つが新しい時代の幕開けを告げるものに成りました。
(しかし、享楽的なローマで居酒屋や売春宿に通い、常に刃物を携帯し暴力沙汰ばかりおこしていたカラヴァジョはしまいには殺人を犯しローマにいられなくなります。
カラヴァジョには常に暴力的なイメージがつきまといます。
そののちマルタ島やシチリア島、ナポリでの逃亡生活を経て、ついにローマに戻る事叶わずポルト・エルコレにて38歳の若さで亡くなります。生きていればもっと活躍したことでしょうに)
これだけの影響力をもった画家でしたので、彼の影響を受けた画家というのは当然いた訳ですが(カラバジェスキと呼ばれる人々です)カラヴァッジョは他の画家と違って工房を持っていなかったので、弟子というよりはそのスタイルに影響を受けた人々ということになります。
しかし、続く1625年の教皇ウルバヌス8世(彼はバルベリーニ家の出身です)の聖年ではランフランコがサンタンドレア・デッラ・ヴァッレ聖堂のドームに「天国」を描き、盛期バロックの端緒をつげ、ベルニーニが教皇のお気に入りとなりサン・ピエトロ大聖堂に巨大なバルダッキーノを建設する頃に成ると、カラヴァジスキたちは次第にローマを離れ各地に散っていきます。
それでは・
4月の事なので記憶も薄れがちなのですが、
今回のカラヴァッジョ展で印象深かった3点を紹介します。
「バッカス」1595年・フィレンツェ・ウフィツィ美術館
ほろ酔い加減で頬が上気した少年が帯を解こうとしている・・
何とも艶かしい一枚。
古代の酒神というより、バッカスに扮した少年という面持ち。
この果物などの静物の完璧な写実こそがカラヴァジョの真骨頂。
彼の描く少年がいつもあまりにも艶かしいので、カラヴァッジョは男色なのかと思ったのですが、その当時のローマは大変享楽的であり、男色というよりは(お気に入りの娼婦もいたので)性的に非常に自由な時代であった・・と考えるのが妥当に思えます。
「エマオの晩餐」1606年・ミラノ ブレラ美術館
見た瞬間に深い感動を与える作品です。
真ん中に描かれている人がキリストだと何の説明もなく此の絵の前に立った観覧者がわかるところがすごい所だと思います。
こうやって写真で見ると光が左から指しているように見えますが、
絵の前に立つとキリスト本人が光を発しているような印象を受けるのです。
キリストのこの指の形は神性を表すとミラノで最後の晩餐を見た時に聞いたことはありますが、そのような知識は後付けにしかすぎません。
此の絵と同じ構図でロンドンのナショナル・ギャラリーにあるのがこちら。
(こちらが先に書かれています)
見比べれば、解説書を引用するまでもなく、上の作品のほうが精神性の高い作品となっていることがわかります。
(以下カタログより引用)
最終的な作品は内在的となり
福音書の深い意味、つまり消えた後になってはじめてキリストが「心の目」によって認識出来たという事が示されている。
最後にこれまで個人の所蔵であり今回初めて公開されたという今回の展覧会の注目作品。
「法悦のマリア」ローマ・個人蔵
涙を流しているので法悦というより「改悛のマグダラのマリア」ではないでしょうか?
カラヴァッジョがローマから逃亡し恩赦を願って描いた・・
とも言われています。
また、こちらの絵はオリジナルではないようでコピーをいくつも書いていたともいわれています。
3ヶ月もたつと作品に対する記憶があまり蘇ってきませんね・・
(早く書くべきでした)
さて、カラヴァッジョがはっきりとバロックの幕開けとして位置づけられたのは、20世紀に入ってから。
1951年のミラノ王宮での「カラヴァッジョとカラバジェスキ」という展覧会でロベルト・ロンギは
彼こそレンブラントの予兆としてバロックの先駆者として位置づけており
彼の描く光は救済を表している・・
救済のモチーフこそが彼の作品に共通するとしています。
1971年の「カラヴァジョの詩学におけるリアリズム」の中でのジュリオ・カルロ・アルガンの言葉を最後に・・
カラヴァジョのレアリズムは生の思想によるものではなく、死の思想による世界のヴィジョンに他ならない。
したがって、反自然的・反歴史的・反古典的であるが、かえって深く絶望的なまでに宗教的である・・
国立西洋美術館は金曜日は午後8時まで開館しています。
遅い時間は空いていて、お勧めです。
外に出ると真っ暗・・
散り際でしたが夜桜がとても綺麗でした・・
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