夏休みにローマの「ボルゲーゼ美術館」を訪れました。
ローマの北ピンチョの丘に広がる公園にあるプライベートコレクションの王といわれる美術館です。
カプリ島を後にして、ナポリから列車で1時間半ローマへ。
宿泊先について慌ただしく昼食を済ませ・・ガイドさんと待ち合わせているボルゲーゼ美術館前へ急ぎます。
今回は「ローマ公認ガイド(日本人)」をプライベートでお願いしました。
ローマ公認ガイドの試験は非常に難しく、しかもローマ県が人数を調整していて、欠員が出たときのみにしか募集を行わないそうで、さらに日本人で・・というと数えられるほどしかいないそうです。
今回の旅行ではローマ滞在の2日間にわたって、ローマ公認ガイドのYさんにアテンドして頂きました。
一日目はボールゲーゼ美術館とサンタ・マリア・デル・ポポロ教会さらにトレビの泉まで。ニ日目はバルベリーニ絵画館から、パンテオン、サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会、ナヴォーナ広場まで。
移動の途中もずっと私達のペース歩きながら立ち止まりながら、歴史や美術についてお話し頂き、真夏のローマは砂漠のように暑く、アフリカから運ばれてくる砂に苦しめられた2日間ではありましたが、このローマ公認ガイドのYさんのおかげで、(その歴史と美術の知識の深さに感動しつつ・・)2回目のローマ旅行でようやくローマという街の全体が見えて来た気がしました。
そんなYさんのガイドで巡った「ボルゲーゼ美術館」について、
まず、ボルゲーゼ一族についてとこちらのコレクションの収集、散逸、現状などについて、次に「ボルゲーゼ美術館」の数あるコレクションの中から。ベルニーニの彫刻・カラヴァジオ・ドメニキーノ・ジョルジオ−ネさらにこちらの美術館を代表するティツィアーノの作品について書きたいと思います。
ボルゲーゼ家はシエナの出身。領主の出身ではなく官僚の家系で1200年代にはシエナの法学者として名をなしていたとか。ボルゲーゼ家の最初の著名な人物はマルカントニオ1世。シエナ共和国の大使としてローマに赴任。生涯のほとんどをローマで過ごします。聖職者ではないにも関らず枢機卿会議直属の弁護士に任命され、のちにはローマの行政官も努めます。1548年にローマの古い貴族アスタッリ家の娘フラミニアと結婚。これによりボルゲーゼ家はローマの貴族に仲間入りします。
息子のカミッラは順調に出世し、枢機卿、スペイン法王特使、ローマの大司教を務めた後、1605年ローマ教皇パウルス5世となります。
こちらがパウルス5世。
そしてこのパウルス5世のお気に入りの甥っ子のシピオーネ・ボルゲーゼを枢機卿にします。シピオーネ枢機卿がローマ近郊に9.5haもの広大な葡萄畑を購入して、壮大な「ヴィラ・ボルゲーゼ」を築きまた美術品コレクションを収集しました。
こちらがシピオーネ・ボルゲーゼの彫像。これは彫刻家ベルニーニにシピオーネが作らせたものです。
シピオーネ枢機卿は優れた芸術審美眼を持ち、また美術品に対する執着も並大抵のものではなく、貴重な作品の入手には手段を選びませんでした。
こちらはかのラファエロの「キリストの埋葬」もともとはペルージャの聖フランチェスコ教会にあったもの。こちらを寄越すよう申し立てるも断られても諦めず、バリオーニ礼拝堂から宵闇に紛れて持ち出させ、のちに教皇パウルス5世が精巧な模写を送らせて教会を黙らせたというもの。それからこちらはドメニキーノの「ディアナの狩り」こちらもまだドメニキーノの手元にある時にシピオーネ枢機卿が大変気に入って、差し出すようにいうも、ドメニキーノから「これは依頼者がいるものなので・・」と断ると・ドメニキーノを3日間穴に閉じ込め、無理やりイエスと言わせわがものにしたとか。他にもかカラヴァジオの初期の作品をよこすように、カラヴァジオの師匠にいうも断られると、その師匠をあらぬ咎で逮捕してその間に手に入れたり・・
その手段を選ばない美術品収集に対する執着は異常なほど・・でもその審美眼は確かなもので素晴らしいコレクションを築きました。ヴィラの建物の内装も新古典主義様式に後期バロックの様式を控えめに加えた調和のとれた美しいものです。
枢機卿はコレクションが散財する事を恐れて、1633年にそれらを信託寄贈指定にしました。
しかし1797年のフランス革命中、その信託は無効になります。
ナポレオン・ボナパルトが教皇領に侵略し、教皇ピウス6世はトレンティ−ノ条約で領地の割譲と賠償金、美術品の譲渡などの条件をのむ事になります。それにより「ラオコーン」や「踞るヴィーナス」とともにボルゲーゼ家の貴重な絵画もたくさんフランスに持ち去らました。
(その持ち去られたコレクションの中には上に紹介したシピオーネが手段を選ばず手に入れた、ラファエロの「キリストの埋葬」とドメニキーノの「ディアナの狩り」もあったというので皮肉なものです。最も、此の2点も神聖同盟により再びボルゲーゼ家に戻ってきます。)
ご存知の通り、「ラオコーン」と「踞るヴィーナス」は1815年のワーテルローの戦いにフランスが敗れると神聖同盟により再びローマに戻されます。
さらにマヌカントニオ4世の息子カミッロ・ボルゲーゼは元ジャコバン主義者でナポレオンの妹パオリーナ・ボナパルテと結婚した後、ボルゲーゼ家の考古学的コレクション344点をナポレオンに譲るように強要されます。これらのコレクションは現在ルーブル美術館で「ボルゲーゼ・コレクション」として見る事が出来ます。
シピオーネ枢機卿の願いもむなしく一部は散逸してしまったコレクションではありますが、1816年に教皇ピウス7世により再び信託遺贈指定が認可されます。
さらに感動的なのは・・1892年のロマーナ銀行の倒産によって被害を被ったボルゲーゼ家は20世紀になっても間もない1902年にヴィラ・ボルゲーゼとその美術館コレクションと広大な敷地をわずか360万リラで国に譲渡します。
このことがなぜ感動的かと言いますと・・美術コレクションを一点づつオークションにかけて売却した方が遥かに収入になったからなのです。
例えばこちらはボルゲーゼ美術館のコレクションの代名詞にもなっているティツィアーノ・ヴェチェリオの「聖愛と俗愛」1899年に銀行家のロスチャイルドが此の絵1点に400万リラの値を付けました!
敷地を含むすべてのコレクションを360万で国に売却したボルゲーゼの決断は、コレクションの散逸を恐れたシピオーネ枢機卿の意志を尊重した英断として讃えられるべきものです。(なかなか出来ない事です!!)
さて前置きが長くなりましたが・・
ボルゲーゼ美術館とそのコレクションの話しに戻ります。
美術館に入って直ぐの玄関大広間のフレスコ画。「まず此の空間を味わってください・・」とYさんに言われます。この様に天井画が空に果てしなく突き抜けているフレスコ画はシスティーナ礼拝堂などであたりまえに目にするものですが、これを「吹き抜け型」といい、この様式を初めて採用したのは次の日に訪れるバルベリーニ絵画館の天井画だといいます。ボルゲーゼ家の天井画は神話を題材にしたものですが、こちらもユピテルが中央に見られます。マルカントニオ4世が息子のカミッロの誕生日を祝ってのユピテルとロムルスの下にガリア人と戦うカミッロをシチリアの画家マリアーノ・ロッシに描かせたものです。そしてこちらは床にはめ込まれた4世紀のモザイク画。健闘士と野獣の戦いの場面です。仮面を付けているのが地方から連れて来られた奴隷ですよ・・とYさんが説明しているところです。
次は壷の間・・しかしこの部屋にあった壷はすべてナポレオンによってフランスに持ち去られ現在はルーブル美術館所蔵です。(天井画は絵画に度々使用されるギリシャ神話の場面「パリスの審判」)そして、皮肉な事に壷の代りにこの部屋の真ん中で艶然と横たわるのはナポレオンの妹「パオリーナ・ボルゲーゼ」
この彫刻のごとく大変美しい女性であったそうですが当時、高貴な女性が裸で表現されるとは有り得ない事だったとか・・そのパオリーナにローマの貴族の夫人達が「恥ずかしくなかったの?」と尋ねたところ、「風邪は引かなかったわ〜」と軽くあしらったとか。(さすがナポレオンの妹です)しかも此の像、台座に機械が組み込まれていて、くるくる回転する仕掛けになっているとか。
後ろから鑑賞しても完璧に美しいパオリーナ・ボルゲーゼの彫刻はアントニオ・カノーヴァによるものです。
こちらがミケランジェロのダヴィデ像。(アカデミア美術館・フィレンツェ)
ミケランジェロのダヴィデ像が勝利の表現を重んじたのに対して、ベルニーニが肉体の躍動感の表現に重点をおいているのがわかります。
そして発表されるやいなや大評判になり、人々がこれを見る為に押し寄せたという・・
「アポロンとダフネ」
こちらは古代ローマの詩人オウィディウスの物語を典拠としています。
キューピッドは恋を掻き立てる黄金の矢をアポロに、恋を消す鉛の矢をダフネに射たとか。
それゆえアポロはダフネを追いかけますが、ダフネはアポロのものになるのを拒んで月桂樹に変身してしまいます。
そのまさにダフネが月桂樹に変身する瞬間を表現したものです。
ダフネの手や髪が木に変身していっている描写と躍動感を大理石像の周りをくるくる回りながら・・鑑賞します。
「技巧の奇跡」とはよく表現したもので、ベルニーニの想像力の豊かさと表現力の素晴らしさにただただ溜息しかでません。
次のベルニーニの作品は「プロセルピナの略奪」こちらもオウィディウスの「変身譜」を典拠とするものです。冥界の王プルトンが見初めた穀物の女神ケレスの娘プロセルピナを奪い去る場面です。
これも実際に見るととても躍動感のある作品なのです。
こちらから見ると軽々と抱えられているように見えますが、後ろから見るとプロセルピナがプルトンの顔を強く押しているのがわかります。
そしてプルトンの足下には冥界の守り神の三頭の首を持つ犬が・・
写真で見るとわかりにくいのですが、プロセルピナの涙が流れ落ちているのが印象的で
、鑑賞者も略奪の瞬間を目撃したかのようなドラマチックさは「アポロンとダフネ」も同じです。
そしてこれはベルニーニがまだ20歳位の初期の作品。
天才の片鱗は伺わせていますが、円熟期の作品に比べると躍動感にかけます。
ベルニーニの晩年の作品「真実」です。
2階に上ると・・絵画のコレクションがあります。
ボルゲーゼ美術館を訪れた最大の目的はベルニーニとカラヴァジオのコレクションを見る事でした。
カラヴァジオについては私のブログでも「カラヴァジオ展」にて紹介していますのでここでは省きますがバロック絵画の先駆者と言われローマでは主要な教会を飾っただけでなく貴族達もこぞってカラヴァジオの絵画を注文したそうです。
こちらは「病める少年バッカス」
カラヴァジオ初期の作品です。
「ゴリアテ(自画像)の首を持つダヴィデ」
このやる気のない表情はカラヴァジオがローマで殺人を犯して追放されて以降の作品であることが一目で見て取れます。
またゴリアテを討つダヴィデがミケランジェロとベルニーニの彫刻でも表現されていたように好んで用いられるモチーフであること、その同じモチーフですがカラヴァジオが描くと「斬首」という場面になってしまいます。
(斬首もカラヴァジオが繰り返し描いたモチーフです)
ブロンズィ−ノはマニエリスムの画家です。
ベルニーニの自画像
そして前述しましたが、ボルゲーゼ美術館を代表する ティツィアーノ・ヴェチェリオの「聖愛と俗愛」ティツィアーノについても過去のブログで紹介しておりますのでここでは詳しくは書きませんが、ヴェネツィアを代表する画家なのですが、その絵画はヴェネチアの外交手段に用いられた為作品が国内外に散逸しており希少性がもともと高いのです。
しかもこの絵画はその寓意がいまだ解読されておらず、謎に満ちた作品であり、本来の作品の美しさもさることながら、またロスチャイルドが400万リラの高額な買い値をつけたことからもつとに有名な一枚です。
こちらも
ティツィアーノの作品「アモールに目隠しするヴィーナス」晩年の作品です。
近くに寄ってみると輪郭がラフで荒い印象ですが離れてみると優美な作品です。「素描のフィレンツェ、色彩のヴェネチア」と言われる所以です。
ボルゲーゼ美術館を後にして。。広大なボルゲーゼ公園を歩きながら、サンタ・マリア・ポポロ教会へ向かいました。その目的はポポロ教会に飾られているカラヴァジオの「聖パウロの回心」を見る為ですカラヴァジオの最盛期の絵画は教会から注文された宗教画ですからやはり教会であるべき場所でみると美術館で鑑賞するのとは違う感動があるのですとはガイドのYさんの弁。
ポポロ教会に面してポポロ広場がありその北側にポポロ門があります。
これはローマの凱旋門と言うべき重要な門で、ローマに巡礼に来た人々はまず此の門をくぐります。古代ローマの時代にはフラミニア街道がアウレリアヌス城壁を通過するフラミニア門が建てられていた交通の要所でした。
ポポロ門を広場の外側からみたところ・・あら見覚えのある紋章が・・この薬を意味する5つの球からなる紋章。メディチ家の紋章です。ポポロ門の外側は、教皇ピウス4世の命によりミケランジェロが手がけたもの。ピウス4世はメディチの名を持ちますが、フィレンツェのメディチ家とは血縁関係にはなかったそうですが、ローマの入り口ともいうべきポポロ門の上にメディチ家の紋章を見つけたときは感慨深い思いでした。写真はありませんが、此の門の内側(広場側)はカソリックに改心したスウェーデンのカトリーナ女王を歓迎するためにアレクサンデル7世がベルニーニに装飾させたものです。門をくぐると広場の中心にオベリスクがあり、その向こうに三本の道が続いているのが見えます。左の道はスペイン広場に真ん中の道はヴェネチア広場に右の道はサン・ルイージ・フランチャージ教会やナヴォーナ広場に左にポポロ教会右に行けばヴァチカンに通じています。ポポロ門はローマを訪れる人が最初にくぐる門であり、またポポロ教会は巡礼者が一番最初に訪れる重要な教会であったといいます。その教会にカラヴァジオの宗教画があるということ・・それがカラヴァジオがいかにカソリックにとってローマにとって重要な画家であったかということがわかります。
さらにこの日の夜子供達と夕食に出かけたレストランから宿泊先であるPrazzo Ruspoli(スペイン広場)に向かって歩き出すも、夜のローマ・・すっかり迷ってしまいました。
そうした時にヴェネチア広場に辿り着き・・「あそうか、ではここからまっすぐ南に行くとポポロ門、右の道がスペイン広場に通じているのね」
古の巡礼者のようにポポロ門を見て再び道を見いだし歩きだしたとき、
ローマの歴史ある街を確かに自分たちの足で歩いているのだと言う感慨におそわれたのでした。
そのように重要なポポロ門ですが、ローマの宿泊先で貰った地図(上側)にはイラスト付きではっきりと記されており、そこから放射線状に広がり続くローマ時代からの街道が見て取れます。
日本のガイドブックの地図(下側)にはさがさなければわかりません。また見比べて頂くとヴェネチア広場も日本のガイドブックの地図には探さなければ目に入りません。逆にスペイン広場はローマの地図には大きくは書かれていません。(上の地図)ローマの宿泊先で貰ったもの(下の地図)日本のガイドブックに載っているもの
いずれも観光客の欲しい情報が載っている地図ではありますが、その地図を見るにさえ・・ローマはやはり幾層もの歴史の気の遠くなるような時代の積み重ねが書き込まれているのだと・・
現地の優秀なガイドさんの導きのもと現地を旅して、更に自分たちの足で歩いて迷って、初めてわかる事なのでした。
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