桜咲く有田へ
花冷えとはよく言ったもので、今日も生憎の雨で寒い一日でした。
九州陶磁文化館の桜は満開でした。
何度も伺ったことのある陶磁文化館でしたが、
鈴田館長にお会いするのは実は初めてでした。
館長室にて打ち合わせを。
今回鈴田館長から伺ったお話しの中で1番興味深かったのは、
白鳳堂というメイク用品の筆で有名なブランドさんが、
道楽?で発行されている「ふでばこ」という雑誌です。
そのすごさは「酢」だけで一冊の雑誌を作られたり、
「有田焼」だけで一冊の雑誌を作られたりというマニアック度ではなく、並々ならぬ作り込み、一流の人脈で一流の窯元を全て押さえ、コラムのその分野の一流の方が執筆されていることです。
これをカメラマンとライターだけで、取材されていたとは、
そのエネルギーと熱意に館長も舌を巻かれたそうです。
江戸時代の食事風景を再現するために、九州陶磁文化館の美術品や
様々な美術品クラスの品々を許可をとり、美術梱包師を雇い、
学芸員の立ち合いのもとに、お料理まで載せて再現された冊子は
見ものです。
それから
鈴田館長が監修された美術展目録のこちら。
有田焼400年を記念して開かれた展覧会
「明治有田 超絶の美」の図録です。
さっすが世界文化社の本。
お写真が美しい〜〜〜。
明治時代の有田焼、
香蘭社
幻の窯精磁会社
辻精磁社
深海商店
深川製磁
さんの凝った技法の数々。
それから鈴田館長の図録としての並々ならぬこだわりとして
ご苦労などもお伺いしました。
こちらはいまだによく売れているのだそうです。
また、色々とお話しを伺う中で興味深く深いと思ったのは、
明が滅亡して清王朝になり、中国国内の混乱により景徳鎮等の窯での生産が落ち輸出が停滞したのに
乗じて、オランダ東インド会社が目をつけたのは有田の磁器。
そこから海外輸出の最盛期が始まりその中で有田焼も
技術的発展を遂げるわけですが、
再び市場を中国に奪われます。
そののち、国内も大名のみならず、
国内の商人も豊かであった
ため、国内のお金のある都市にさかんに有田焼が、輸出されます。
それが1684年から1835年。
江戸や大阪のみならず、
北前船にて、(金山のあった)佐渡や能登半島まで。。
そうやって江戸時代の庶民の暮らしに磁器が根付いていったのです。
日本史上で最も平和であった江戸時代ならではのエピソード。
有田の歴史の中では、海外とのかかわりばかりにスポットがあたりがちですが、
この時期に作られた、茶器、水差し、香炉、食器は
いかにこの時代が文化的で美しい磁器にみたされていたのかを
教えてくれます。
館長とのお話しのあとは、
展示をゆっくりと見て周ります、、
そのあと訪れた陶祖李参平さんには
有田焼の原点ともいうべき、
泉山磁石場もご案内いただきました。
よまなければならない本、
読みたい本もたまってきました…
有田の来し方、
そして
行く末を
私なりに考えてみる。