渋谷道玄坂のBunkamura ザ・ミュージアムで開催されている「ボッティチェリとルネサンス〜フィレンツェの富と美」を見てきました。
土曜日でしたが、前日に行った国立新美術館の「ルーブル美術館展」に比べれば人も多くなくゆったりと鑑賞できました。
ルネサンス・フィレンツェ・ボッティチェリという教科書的にスタンダードな美術テーマ・・これをいかに料理するかはキュレーターの腕の見せ所?
といったところでしょう。
期待してしまいます・・
サブタイトル「富と美」からも伺えますがこちらは「フィオリーノ金貨」の鋳造からはじまりボッティチェリの死までという時間軸でルネサンスの舞台をフィレンツェに限って富と芸術との関係を考える
・・というテーマでアレンジされている展覧会。
とても興味深かったです。
まずは「フィオリーノ金貨」について
こちらがそのフィオリーノ金貨。原寸は19.5mm
1252年11月、フィレンツェにて最初のフィオリーノ金貨が鋳造されました。
フィオリーノ金貨について補足しますと・・
”
「フィオリーノ」という単語はヨーロッパの中で花の都「フィレンツェ」のシンボルとして広まった。
フィオリーノ金貨はヨーロッパの中でフィレンツェのイメージとなっており、その偽造は貨幣の信用を危険にさらし、ひいては共和国経済全体の評判を落とす恐れがあったのである。
フィオリーノ金貨の普及の度合は、英語のフロリン(florin)ドイツ語の(Florin)などさまざまな国でフィオリーノから発生した単語が貨幣単位に使われていた事からも明らかです。
オランダではユーロ導入まで通貨の名称としてフロレイン(florein)が使われ、ハンガリーではいまでもフィオリーノから派生したフォリント(forint)が貨幣単位として使用されている。
”
(以上 展覧会公式図録より抜粋)
このように、文字通り西洋を席巻したフィオリーノ金貨ですが、
写真を見て頂くと表に百合の花、裏に洗礼者ヨハネの姿が刻印されています。
百合の花は都市フィレンツェのエンブレムで、洗礼者ヨハネはフィレンツェの守護聖人なのだそうです。
こちら現在ユーロ圏で使われている5セント貨くらいの小いささながら24金で3.53gの価値の高い金貨だったそうです。
さてなぜ、フィオリーノ金貨が絶大な影響力を持ち得たのでしょうか?
メディチ家の財力?影響力?
答えは一部は正しくしかし不十分だと思われます。
フィオリーノ金貨が鋳造されたのは1252年。
コジモ・デ・メディチが亡命先から帰郷しフィレンツェの事実上の支配者となったのが1434年。
メディチ家が支配するずっと前からフィレンツェは繁栄しルネサンスは始まっていたのです。
フィオリーノ金貨が鋳造されたころフィレンツェで絶大な力を持っていたのはバルディ家それからペルッツィ家。
この2大有力家系が手を広げていた分野は、金融業(銀行)、手工業、通商と広くもはや財閥と呼べるレベルでした。
クライアントもヨーロッパ全土に及び、イギリス、フランス、ナポリの各王家、そして法王庁が最大顧客でした。
(最も、法王庁は預け入れ、各王朝は借り入れだったと思われますが・・)
バルディ家の融資がなければイギリス王もフランス王も戦争が出来なかったそうです。
すごいですね〜
このころ活躍していた画家はジョット。
フィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂内のバルディ礼拝堂のフレスコ画(アッシジの正フランチェスコの生涯)を製作したことで有名ですね。
ところが、
1343年にペルッツィ銀行が倒産。
1344年にバルディ銀行が倒産。
それに代わって、1397年にジョバンニ・ディ・ビッチがメディチ銀行の元を開設。
1420年にはメディチ銀行のジュネーブ支店が開設されメディチ家の躍進が始まります。
このころのフィレンツェの生産性ってどのくらいだと思われますか?
フィレンツェの1市民の生産性が他の地域の封建領主や修道院の所有地で働く人の40倍になっていたとする学者もいるくらいです。
領有する土地の広さなら中程度の国家とするしかないフィレンツェの経済力の方が、フランスやイギリスやトルコを完全に凌駕していたとか・・!!
フィレンツェ恐るべし・・
フィオリーノ金貨がヨーロッパを席巻したのも納得です・・
とは言え、この時フィレンツェにはコジモ・デ・メディチによる専制政治がしかれたいたわけです。
その元でフィレンツェは繁栄した。
歴史家のグイッチャルディ−ニはこう言っています。
「メディチは専制君主だった。しかし好ましい専制君主だった。」と。
このメディチ家による僭主政治が機能していた60年間の間にフィレンツェのルネサンスは最盛期を迎えるのですから。
コジモに関して、特筆すべきは彼が高額所得者であったにもかかわらず「累進課税制度」という公正な課税制度を考えだした事ではないでしょうか・・
しかもその税率も4パーセントから33・5パーセント。
決して高くはないですよね。
専制君主ならいくらでも徴収できるところを・・
現実を直視し時代を読める経済人としての秀でた才能にはただただ感心するばかり・・
コジモあってこそのフィレンツェのルネサンスだったと思います。
さて話を展覧会に戻します・・
この展覧会で興味深かったもの。
ロレンツォ・デ・メディチの息子ヌムール公ジュリアーノ・デ・メディチが使っていた
算術と幾何学の問題集。
いつの時代も子供はお勉強・・大変ですね・・
問題集にはフィレンツェの商人たちの姿が生き生きとして描かれて当時の商人の風俗が図らずもよくわかります。
お金・・につきまとう汚れた負のイメージは当時から強くあったようで金融に携わる銀行家・その中でも高利貸しはとくに悪いイメージだったようです。
高利貸しを描いた一枚。
なんとも欲深く狡猾に描かれている事でしょう・・
高利貸しではないにしてもメディチ家も銀行家・・巨万の富を持つ事による負のイメージの回復・また階級が定まっていない社会でのメディチ家のイメージ戦略のために
そして何よりコジモ・デ・メディチやロレンツォ自身の魂の救済のため彼らは芸術の為に惜しみなく出費していくのです・・
「罪から逃れたい・・・というのはルネサンスの原動力だった」
と本展覧会では言っています。
とても面白い視点だな〜と思いました。
コジモの孫のロレンツォ・デ・メディチとボッティチェリは大変仲がよくロレンツォはたくさん仕事を注文しています。
さて、展覧会の作品のメインはなんといってもボッティチェリの聖母子像の絵画・・
(「ケルビムを伴う聖母子」サンドロ・ボッティチェリ(絵画の一部)フィレンツェ ウフィツィー美術館所蔵)
展覧会始まって、集中力のおちていない早い段階で迎えてくれる典雅でしかしあどけない聖母・・
そして終盤にボッティチェリの作品群が集められて部屋があり・・
遭遇したのですよ・・
フレスコ画の「受胎告知」
(「受胎告知」サンドロ・ボッティチェリ(絵画の一部)フィレンツェ ウフィツィー美術館所蔵)
写真は展覧会にあるフレスコ画のほんの一部。
243×555cmの大きさの壁画ですから・・
とても大きな作品です。。
こんな大きなフレスコ画を日本で見られるとは思っていませんでした。
そしてなんと優美なボッティチェリらしいフレスコ画でしょう・・
彼の師匠で女好きのフィリピーノ・リッピの描く聖母がどこか世俗的な表情であるのにたいして女性に縁遠かったボッテチェリの描く聖母はまさに天上の美そのもの・・
風が吹いてくるのです・・
絵画の中から吹き抜けてくる風を感じながら長椅子に座り時間を忘れてフィレンツェ時間に浸りました・・
この優美な空気感はどうぞ、その前に立って味わってくださいとしか言いようのないものなのです・・
そして名画のすごさとは
この優美な風が美術館を出て平凡な日常に戻っても吹いてくる事なのです・・
Bunkamura ザ・ミュージアムは渋谷道玄坂の東急デパートの地下にあり開放的でカフェがあり・・
隣接する書店には美術関係の雑誌や書籍がたくさんあります。
ミュージアムショップで購入したお土産は・・
フィオリーノ金貨のチョコレートとカタログ、フィレンツェ独特の模様を配したデコレーションペーパー。
フィオリーノ金貨のチョコレートはこちらを投稿しながら、食べてしまいました。
だから美術館巡りは止められない♪
(参考文献)
「公式図録 Money and Beauty」
「ルネサンスとは何であったのか」塩野七生
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